ブログを再開しました。今までのおやすみをお詫び申しあげます。
by oikuri
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ちがい

2015/04/27(月) (旧暦)弥生09日

 ネパールでの地震被害は、さらに拡大する様相をしめしております。動かぬと思っていたら突如としての地震、地球は今も昔も変動する球体だとゆうことを忘れてはいけません。自然は差別なく、公平に襲うものです。


名のない領域から生まれた天と地は
すべての生きものを、公平に扱う。
人間だけを
贔屓(ひいき)にしたりしない。
人でも犬でも、同じように
生かしもすれば
死なせもする。

加島祥造著「老子」新訳第五章(22頁)天地は巨大なふいご より抜粋

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写真 ニホンカモシカ


 日本の今の社会は、表向きは「個性を尊重する」と謳(うた)いながらその実「個性的なひと」を排除するとゆうとても陰湿な傾向をもっています。ひとと「ちがう」行動をとると「KYだ!」とか「協調性がない」とか「めざわりだ!」とか「常識がない」とゆっては皆して「同じ行動」をとらせようと圧力をかけます。これを「同調圧力」とゆうんでしょうかね。それをさらに助長しようとしているのが、いわゆるマスメディアとゆわれる宣伝媒体です。つまり、この傾向は権力者にとってとても都合の良い傾向とゆえるでしょうね。
 なぜなら「ちがい」をみとめてお互いの意見を交わしながら行う政治の手法が「民主主義」の基礎なのですから。「個性を尊重する」民主的な政治をいやがる権力者にとって「右向け右」っと同じ行動をとってくれる方がはるかにコントロールしやすいですからね。

 お互いの「ちがい」を尊重しながら人間関係を築いてゆくのが理想的な社会としながら、根っこでその「ちがい」が目障りで嫌で嫌でしょうがない日本の社会は、社会生活にいろいろな障害(むらはちぶ)をもたらします。

・・・と。そんなことを考えていたら鶴見俊輔がある対談で・・・

私の考えでいうと、1905年(明治38年)、日露戦争の終わりとともに、この国の「本当の教育は」終わった。

・・・と。しらっとゆってのけているんです。・・・

 つまり、黒船来航から日露戦争までがお互いの「ちがい」が認められて個性が生きてきた社会で、日露戦争終了から後現在までが「成績一本槍」で「均一化」が目的の「ちがい」無視・没個性社会になってしまっているとゆう。その極端な例として「文部科学大臣が・・・これからは予算を増やして、ノーベル賞受賞者を30人に増やします・・・って。これはまさに”箱モノ”的な考え方で、100円を入れたらボコッとチューインガムが出てくる。それと同じ考え方なんだ」とその没個性社会を喝破しているのです。

 で、「ちがい」について書きはじめたらついつい脱線して上記のようなありさまとはなりました。ほんとうはもっと別のことを書こうと考えていたのですがね・・・また後日のおたのしみといたしましょう。今日はこれまで。


------------ 以下はCMです。無視してくださいね。 ------------
by oikuri | 2015-04-27 13:58 | 八つだより | Trackback | Comments(0)
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