八ヶ岳山麓の阿弥陀岳の麓「美濃戸minoto」での日常生活
by oikuri
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おもふ

2015/04/05(日) (旧暦)如月17日

 三月すえから今日(4/5)まで孫たちがあそびにきておりましたですよ。まあ、成長したような相変わらずのような毎日でした。こんどいつ来るのかな?
 それにしても昨日は暑かったです。ここの外気温がプラスの19度Cもあって、まるで夏日でしたよ。

 昨日遊びに行った八ヶ岳自然文化園に咲いていた水芭蕉。
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 当方は、お「能」についてはからきし知識もなく70年も過ごしてまいりましたが、いただいたコメントに刺激されて、安田登「異界を旅する能」ちくま文庫や-40-2を遅ればせながら手にとってみております。
 その副題が「ワキという存在」とゆうんですが、ワキとゆう言葉は聴いていてもその内容についてはなにも知らずにきて、今頃ほうなるほどふんふんとゆう具合で、にわか知識を仕込んでおります。

 この本を読んでいるといろいろなことが脳裏に呼び覚まされて、あれこれと本題と離れた妄想が浮かんでは消えするので、そうゆう意味でもとてもおもしろく愉しみながら文字をおっておりますですよ。

 そんなこんだで、読書中に浮かんだ妄想などをすこしづつつづってみようかとおもふ今日この頃、みなさまいかがおすごしでしょうか?

 西洋の哲学者のことばに「われ おもふ ゆえに われ あり」とゆうのがありますが、この「おもふ」われは、どうも自然から切り離された人間(われ)であるようですね。
 日本で使われる「おもふ」は、どうも自然にどっぷりと漬かった人間(われ)のようです。だからでしょうか、道(タオ)なんて発想も自然と切り離せないところから出てきており、日本人の一角を汚している当方などには馴染みやすい発想なのかもしれませんね。

 また「自由」とゆうことばも、西洋では時の支配権力からの「自由」とゆう意味合いから生まれてきているようですが、日本でゆう「自由」は、いろんなしがらみからの「自由」とゆう意味合いが強くて、支配権力からの「自由」とは意識的に大分ずれているようですね。「権利」も西洋では獲得するものの意味合いで成立するものですが、日本では「権利」はあるもの又はあたえられるものの意味合いが強いようにおもいます。まっ、これは当方の妄想ですからあたっているかどうかはあやしいものですが・・・。でも、これを前提にすると、日本国憲法の存在の危うさの根源が、その同じ「ことば」に西洋的な発想と日本的な発想が明確に意識されないで、場合によってはごちゃごちゃに恣意的に我田引水的に利用されてきたところにあるのではないか、とおもふ今日この頃です。



------------ 以下はCMです。無視してくださいね。 ------------
by oikuri | 2015-04-05 11:23 | 八つだより | Trackback | Comments(1)
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Commented at 2015-04-05 20:44 x
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